無理をして声をあげなくてもいい

『声をあげるべき』という機運、同調圧力みたいなものがしんどい。声をあげられるのが優れているだとか正義であるなんてことはない。無理をしてまで声をあげなくてもいいというのが僕の考え。

声をあげられる人とあげられない人との間には相当の隔たりがある。声をあげられるようになるまでには時間がかかる。声をあげることでかえって苦い思いをして傷つき声をあげなければよかったと思っている人もいる。声をあげられないくらい日々傷つき、疲弊している人もいる。声をあげられる人は、そうした声をあげられない人に対して声をあげることを迫ることの暴力性にももう少し目を向けて欲しい。

これは声をあげること自体をやめさせたいわけではない。むしろ声をあげる必要がある場面だと思う。でも、だからこそそのときに声をあげるのがつらい、声をあげたくない人のための余白も残してほしい。そこで善悪二元論の踏み絵を踏ませようとしないでほしい。声をあげよう、声をあげるべき、そんな機運・同調圧力が高まるときほどつらくなる人の存在にも思いを馳せてほしい。

また僕自身、権威性ある立場であり影響力があるからこそ意図せず本人のペースではない形で声を上げさせてしまわないように心がけたい。声をあげた当事者を称えすぎるとそうでない当事者を意図せず焦らせたり傷つけてしまうことがある。そこが悩ましくて結果、こういうときどっちつかずな振舞いをしてしまう自分がいる。そこに葛藤があるけれどそれでも僕は語れなかった経験者として語れないことも尊重していきたい。世の中の流れに逆行するようだけれどこんなときだからこそ語れなかった経験者としての声を述べておこうと思いました。

差別をなくすためのアクションが別の差別を助長する。人権を守るための活動が別の人権を犠牲にする。マイノリティの代弁をしているつもりで別のマイノリティ性を持つ人たちをどんどん脇に追いやり苦しめてしまってはいないか。そこは常に批判的でいたいです。自戒を込めて。