オタクな子ども・若者の声を聴くということ

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僕がアフターケア等で関わる若者にはどういうわけか男女問わずオタク率が高い。なんとなく同じ匂いを嗅ぎ付け引き寄せあっているのか、たまたまなのかはよくわからないけれど。
他の支援者さんから安井さんは子ども・若者のオタク話がわかるので助かるみたいなことをよく言われる。そうして言ってもらえるのは素直に嬉しいことだけれど、同時にこれはそんなに特殊なことなのだろうかという疑問も抱く。
見方を変えれば他の支援者さんがそうしたオタクな子ども・若者のニーズに迫れていないのでは、そうしたオタクな声をちゃんと聞けていないということではないか。
 そうしたオタク趣味を支援者に開示できている子ども・若者はまだマシな方でもしかしたら、知らず知らずのうちにそうしたことを話してはいけない、話したら恥だみたいに思わせてしまってはいないか。
これだけアドボカシーが重要と言われていても子ども・若者のオタク的な声に対しては看過されたり、無意識にパターナリズムが正当化されたりする側面もあるように思う。
実際支援の現場では悪意なく子ども・若者のオタク趣味を正面から否定するような発言をしたり、あるいはステレオタイプなオタク像を押し付けようとして子ども・若者から反発受けているような例にもしばしば接する。
もちろんこれはコインの裏表でありそうしたオタク趣味や表象を好まない子ども・若者もいるだろうし、それに偏りすぎると今度はそうした子ども・若者の声を聞こえにくくしてしまう。なのでそのあたりはアセスメントと役割分担が大事だと思う。
ガチオタクな子ども・若者からすれば、にわか趣味で語ろうとするのはかえって逆効果だったりもするから、支援者も無理する必要はなく身の丈にあった関わりで良いとは思う(もう少し子ども・若者の世界に踏み込んだ理解が必要だとは思うが)。
子ども・若者であること、オタクであることは二重に抑圧されやすい構造があることはもう少し知られてほしいなと思う。

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