今の子どもたちの声とかつて子どもだった人たちの声

子どものためと言って活動する人たちの場にはいつも子どもがいないことの気持ち悪さ。
子どもがいるのは頑張る子、可哀想な子、弱い子等な支援対象としてラベリングされた鳥籠の中。
その鳥籠の中に収まろうとしない子ども達は問題のある子扱いされるか、自己責任とされるか、例外扱いされ見て見ぬふりされる。
 子どもの声といいつつそこにあるのはかつて子どもだった人たちの声か、その人たちにとって都合の良い今の子どもの声だけ。
子ども時代に声を聞かれなかった人が大人になってからはじめて語り、受け止められる機会は大事。
てもそれはどこまでいってもかつて子どもだった人たちの声にすぎない。そこで留まっている限りは今の子どもたちの声は聞かれない。
かつて子どもだった人たちの声が大きすぎると、今の子どもたちの声が侵食され、かき消されてしまう。
今の子どもたちの声を聞くためには、かつて子どもだった人たちの声は一歩引いて自重しなければいけない。そこに葛藤がある。
子どものために、子どもの声を聞こうとする人たちはたくさんいるけれど、かつて子どもだった人たちの声は聞こえても、今の子どもたちの声はなかなか聞こえてこない。