「子どもまんなか」という言葉への違和感

子どもの支援界隈でスローガンとして語られる「子どもまんなか」という言葉について。その言葉の意義や込められた想いは理解しつつもどこか違和感があった。eyecatch

また、子どもをまんなかに色々な支援者、専門職がそれを取り囲むような連携の概念図(添付のような図)がしばしば用いられれ、僕自身こうした説明をしていた時期もあるけれどやはり同様にどこか違和感があった。

その違和感がなかなか言語化できなかったのだけれど、先日参加した子どもの権利勉強会で“「子どもまんなか」ではなく「共同建設」”というフレーズに触れて違和感の正体がわかった気がする。

それはどこかで子どもを特別扱いしなければいけない存在、保護される存在としての価値観を過度に助長してしまっているのではないかという違和感。子どもが主体のようで主体でないとでもいうか。

「子どもまんなか」と言われるときの子どもと子ども以外の人との関係って対等な感じがしないんだよね。それでいて実際には子ども中心に物事が進められるわけではないことに欺瞞があるのではないか。

子どもを様々な支援者が隙間なく取り囲む様は見方を変えればいつまでも子どもを支援される存在として固定化し続けようとするようにもみえる。結局支援者目線で取り囲まれる子ども本人からすれば息苦しさを感じる部分もあるのではないか。

もちろん自然状態で完全な対等な関係性というのは現実にはなかなか難しいわけでその大人の権威性、子どもの脆弱性等による力関係を意識する必要性があることもよくわかる。専門職としては特にそれを意識する必要がある。それでも段々と真なる意味で対等な関係にしていかなければいけないのでは。

ここ数日、子ども・若者と大人とでまさに共同した実践をしようとしている団体の取組をいくつか見させてもらい大変感銘を受けた。子どもと共に創っていくってこういうことなのかなと。自分がこれまでしてきたことは共創といえるものだったか、もう少し共創を意識してみようと思った。