福祉のスペシャルな実践へのモヤモヤ

機関や専門職、制度が本来的・標準的に担保している機能や役割と一部のスペシャルな実践の中で実現している機能や役割はちゃんと区別しておかないと怖いなぁと感じる。

いわゆる「困難ケース」(この呼び方は好きじゃないけどあえて使う)に多職種多機関連携で取り組むような場合、枠組に綺麗にあてはめて支援できるようなことはなくて、どこかしらの機関や専門職が制度をはみ出たスペシャルな実践をせざるを得ない。

ただ、そうしたスペシャルな実践であることが意識されず当該機関や専門職、制度の中で当然に行なわれるものと思われてしまうと色々弊害が起きる。酷い場合は前はそうしてくれたのに、他ではやってくれるのになんでやらないんだみたいな不満や不信に転化して連携を阻害することも。スペシャルな実践の功罪を感じる。

スペシャルな実践の良いとこばかりが注目され。枠をはみ出て汗をかきながら板挟みにあいながらも立ち回ったり、あるいはそうしたスペシャルな実践を目立たないところで下支えしている人たちの苦労は目が向けられにくい。

もちろんそうしたスペシャルな実践がその後も当たり前に続き広がっていくような努力も必要…というか実際には制度に当てはめるだけの支援にならないようにすることの繰り返しだとは思う。

でも基本があるからこその応用なわけで、スペシャルな実践では現実にはこれだけ無理をしていて、これだけコストがかかっているということはちゃんと可視化していかないと。特にそれがインフォーマルな部分での自己犠牲で支えられているような場合には。

ただ、ここに職域拡大や制度拡充のような政治的意図や寄付助成獲得みたいな経営事情が絡むと、あれもこれもできますと必要以上に大きく見せようとしたり、他でもできること他に委ねるべきことまで標準的な機能や役割の中に取り込もうとしたり、反対に苦労の部分、無理がきている部分が隠されそうにもなる。ここが悩ましいなぁ。

ぶっちゃけこれは得意だけどこれは苦手、今回は頑張れたけれど同じこと今後も続けていくにはもっとこうしていかないと厳しいみたいな話をもっと本音ベースで語り合えるようになれば良いのに。

最後は立場や役割なんて関係なくできる人が必要なことをやっていくしかないと思うけれど、型があるからこその型破りなわけではじめから型を度外視するのは違うと思う。