「子どもの最善の利益」という言葉の功罪を考える

「子どもの最善の利益」という言葉の功罪を考える…。

様々な社会問題や利害の対立があったとしてもせめて「子どもの最善の利益」という共通の目的に向けて協働していこうという考え自体は素晴らしいと思うし、僕自身そうした考えを基本的に支持して研修等でも発信している。

ただ、最近この言葉自体がかえって問題構造をこじらせているのではと思うことも。

現実には「子どもの最善の利益」が目的として掲げられるものの「子どもの最善の利益」をめぐって支援者間の対立、足の引っ張り合いは後を絶たない。

各々が考える「子どもの最善の利益」は異なるのだから当然と言えば当然なのだけれど、そこで異なる考えを認め合い対話していくのではなく、各々が自身の考える「子どもの最善の利益」こそが正当であることを強調するための根拠を用意して他を批判しようとする論争ばかりが繰り返される。

あと、支援者間で他の支援者をマウンティングするための表現として都合よく「子どもの最善の利益」という言葉が使われているように思うことも。

例えば支援者が自己正当化のために先にその言葉を掲げてあたかも他の支援者は子どもの最善の利益を考えていないかのような物言いをする。

もちろん支援の現場ではときに子どもの利益を蔑ろにした支援が行われることもあり、そうした人たちにそう言いたくなる気持ちはわかる。

でももしその人たちなりに子どものことを考えて行動しているのにそうした言われ方をされたら何か建設的な議論ができるのだろうか。

「子どもの最善の利益」を第一に考えるべきだけれど子ども以外の親等の大人の利益はどうあるべきなのか。

極端な見解だと子どもの利益さえ守られれば他の利益は考えなくてよいという意見もある。

でも子どもたちはいずれ育ち大人になっていくことが予定されているのに大人が大切にされない社会でいいのだろうか。

それが結局めぐりめぐって生きづらさや社会的孤立、虐待につながったりしないのか

支援者に対して自己犠牲的な精神で常時スーパープレイを求める方もいるけれどそれも疑問。

関わる支援者がボロボロになる中で育つ子どもは本当に幸せを感じられるのか。

そもそもそんな状況の中で持続可能で質の高い支援が本当に実現できるのか。

限られたリソースの中で常にスーパープレイをし続ければ当然無理が出て、支援者がつぶれるか、他に必要な支援のリソースが削られる。

その結果、支援が行き届かない子どもが生まれるの繰り返し。

じゃあどうすればいいのかというところでこれといった答えを持っているわけでもないので今日も悶々とした想いを抱きながら「子どもの最善の利益」目指して駆け回る。