「自分はその領域について専門性がないからやれない」という言葉へのモヤモヤ

「自分はその領域について専門性がないからやれない」
しばしばソーシャルワーカーや弁護士等の権利擁護の専門職から聴く言葉。
良く言えば専門性への真摯さ謙虚さの現れと言えるかもしれないけれど、悪く言えば専門性を言い訳にして線を引き他人事にしようとしているように感じることもある。
 専門職が目の前で生活に困窮している人がいても私は専門性がないので支援できません、声を聴くこともできませんとでもいうのか。そうして専門性を過度に強調した結果、縦割りな制度や領域による分断や排除を生み出し続けてきたのではないか。
そうして数少ないその領域の専門を謳う人達にばかりその役割を押し付けてきたのではないか。到底ニーズを受け止めきれるだけのキャパシティはないのにそうすることで。そうしてガラパゴス化を招いてきたのではないか。
専門性についてはGenericとSpecificの意味がある。
権利擁護に関してGenericな専門性を有しているはずの専門職が自分は当該領域においてSpecificな専門性を有していないからといって関わりを放棄して良いのか。
Specificな専門性も必要だけれどそれは必須条件ではないはず。そもそも権利擁護は知識や経験だけでやるものではない。その人の専門家はその人自身なのだからどんなにSpecificな専門性を高めても虚心坦懐にその人の声を聴くということに代わりはない。
障害者、セックスワーカー、LGBTQ+、そして子どものアドボケイター養成講座を受講したけれどそこで話されている内容9割はGenericに共通する専門性だと思っている。このGenericな専門性が基盤にないのは非常に危ういと思うけれどSpecificな専門性については当該領域に関する多少の前提知識は別論としてあとは実践しながらより良いを目指していくしかないと思う。
子ども・若者支援に関して専門性が過度に強調されたり専門家、専門機関に委ねようとしたりする傾向にモヤモヤを感じる。権利擁護についてGnericな専門職ならSpecificな専門性にこだわらずに関わってほしいと思う。