専門職は自身の当事者性を大事にできているか

ここ最近の研修、イベント等で『専門職が自身の当事者性を大事にできているか』というのが共通の話題になっている。

僕が以前所属していたとある団体では弱音を吐いたところ『弱音を吐いていてはいけない』と叱責されたことがある。それは精神論的な叱咤っだと思うけれど言われた側としては傷つくし今にして思えばひどい対応だったと思う。こういうやりとりは専門職界隈では珍しくなくわりかしよくみられる構造。

弱音を吐けないと他の専門職にも厳しくなる。そしてどこかでクライエントに対しても厳しくなってしまう。支援現場でクライエントを傷つけてしまうようなことが起きる要因のひとつはこれだと思う。

なぜ弱音を吐けないというのはつまりひとりの人、当事者としての自分を大事にできていないということ。専門職はみな専門職である前にひとりの当事者であったはず。それが専門職としての職責や使命感みたいなものが当事者性に蓋をしてしまっている、あるいはそれに鈍感にさせてしまっているところがあるかな。

で日頃支援者支援を謳っている僕自身専門職にはどこか厳しすぎるところがあるのかもしれないと思った。センセーショナルな出来事が起きたときに感情的な反応をしてしまうのは、一般の人であれば仕方ないというか当然。でも専門職であればそこは専門職として区別された立ち振舞が求められると考えている。いきすぎた感情が別の人権侵害や差別を助長するものであればそこを整理すべき立場にある。

ただ、専門職であっても自身の当事者性との微妙なバランスの中で日々仕事をしていたり、あるいは普段は鳴りを潜めている当事者性がその人にとって機微に触れる出来事により表出することだってある。そんなときには一旦、専門職としての自分を脇に置いて当事者として声をあげても良いんじゃないか、そう思えてきた。

ただ、それでも当事者として声を上げているつもりでもそれが専門職等の権威ある立場、肩書のもとで発信されたときの一般への影響、危険性は考えなければいけない。あるいは当事者としての感情と専門職としての判断を混同してしまっていないか、まさに自己覚知やSVの機会が大事。

専門職が自身の当事者性とどう向き合い統合していくかというプロセスってもっと必要なのではないかな。弁護士なんかはそうした機会皆無だけれどそれはかなり危ういのでは。専門職が自身の当事者性をさらけだせる安心安全なピアな語りの場がもっと必要なのかなと思った。