子どもアドボカシーについてのモヤモヤ

子どもアドボカシーに関して記事で触れられている基本的な考えに異論はなくこうして関心が高まっていくことも喜ばしいことだとは思う。でもなぜだかモヤモヤも残る…。残念ながらそのモヤモヤをまだ僕自身、言語化しきれていない。
以下、できる範囲で文章化してみました。読みにくい部分もあるかと思いますがご意見等頂ければ。
「アドボカシー」に関してまるで今まで日本には存在しなかったものであり現状の問題を打破できる革新的な新しい概念のように持て囃される風潮にはモヤッとする。
アドボカシーって何も外部の独立した機関だけが担うものでない。現場では地道に当たり前のものとして「アドボカシー」を実践してきた人たちがたくさんいるし、そうした人たちに救われてきた子ども達もたくさんいる。
そうした人たちの声があまりみえてこないしそうした実践が蔑ろにされているようにすら思えることへの違和感。
現実には色々な制約によりなかなか理想的な実践ができず現場からはなかなか声をあげにくい状態にある。
外部からの強い批判に対してはなかなか反論もしづらく、いっそのこと外部にすべて委ねたいという思いすらあると思う。
でも本当にそれでいいのだろうか…。内部アドボカシー実践についてもまだまだ丁寧な議論が必要ではないか。これは元インケア福祉職としての憤りでもあると思う。
一方で外部の独立したアドボカシーの必要性は確かに感じる。権威や権限を有さない、無力だからこそできる関わりはあると思う。
ではその担い手は誰なのか。筆頭として考えられるのはやはりソーシャルワーカーだけれど、日本の場合なかなか独立した基盤のあるソーシャルワーカーは限られる。
子ども家庭福祉士構想のような子ども分野に特化したソーシャルワーカー養成を進めていくことについても疑問に思う。
そもそもアドボカシーの担い手は専門職であるべきなのか。それよりは非専門職ボランティアとの協働の方が日本の文化や仕組みには馴染むのではないかと思う。でも専門職や公的機関と分断・対立した中での非専門職との協働についてはそれはそれで様々な懸念がある。
諸外国のイメージでアドボカシー担い手として弁護士を期待する声もある。
でも日本の弁護士の養成課程や実務においてアドボカシーに関する専門性が標準的に担保されているとは言い難い。中には素晴らしい立ち回りをされる弁護士もいるけれど属人的な実践にとどまりがちで標準化には遠い。そんな状況下で安易に弁護士に頼った制度設計は危険だと思う。
いずれにしても内部アドボカシーと外部アドボカシー双方の充実と協働のための議論が今後も必要だと思う。僕も引き続き内と外それぞれの立場から模索していきたい。

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