子どもの自由意思をどのように考えるべきだろう

子どものアドボカシーを考えるうえでそもそもの子どもの自由意思をどのように考えるべきかというのが僕がずっと持ち続けている問い。

これは子どもの本音じゃない。これは他者の影響を受けたものだ。これこそが子どもの純粋の意思だ。援助の現場ではそんなことがよく言われる。

実際、そうした影響を受けた意思というのはある。本人がそう言っていたからという理由だけでなんでも本人の自由意思、自己決定だとしてしまうのは危うい。

一方で何をもって自由意思というのか、いわないのか。ここの部分の判断が結局大人や援助者が恣意的に行っているようでは子どもの意向自体いくらでも操作可能なものになってしまう。

また一方で大人ですら日々様々な物事から意識的、あるいは無意識的に影響を受けながら意思形成していることを考えれば、より周囲の影響を受けやすい子どもの純粋な自由意思なんてもの自体幻想なのかもしれない。

自己責任を問えるだけの自由意思とは何かという問題でもある。このあたり司法は自由意思の概念自体をある程度操作的に定義して割り切っているので葛藤はあまりない。では福祉の場合はどうだろう。司法の概念を参照していてもそこに答えはない。

結局どこにも答えはないので子どものありのままの言葉を受け止めつつもでも常に心のどこかでその自由意思はどのような影響のもとで形成されたものなのか、自分自身が無意識に影響を与えてしまっていないかを問い続ける。そんな作業の繰り返し。