子どもの権利が思いやりや共感ではいけない理由

人権は思いやりではない。人権はむしろどんなに思いやれない相手であってもその人を人として尊ぶこと、その人の人権を否定しないということ。
そしてここいう人権には適正手続保障が含まれる。思いやれない悪いやつだから適正手続無視して何されても仕方ないというのは基本的人権の考えに反するもの。
人権=思いやりという教育の弊害、共感ばかりが重視されるソーシャルグッドな風潮により市民活動の意義がどんどん歪められてしまっていないか。
思いやれない相手に対して不快感、嫌悪感等の陰性感情を抱くこと自体が駄目というわけではない。そうした感情を抱くことはむしろ自然だし大事なこと(むしろ法律家や支援職は時折この感覚が鈍麻しそうになるのでそれはそれで危うい)。
大事なのそうした感情を前提にしてもなお、その人を人として尊ぶことの難しさを自覚すること。難しいからこそそれを実践していくために専門家の役割が問われる。
ただ専門家任せにするだけでなく市民もそれを意識し続けなければいけない。それがどうしても難しいという場面では無理に向き合おうとせずに距離をとることも大事。
学校での人権授業や対人援助職向けの人権擁護研修では必ずこの話を最初にするようにしている。そうしないといじめ予防もアドボカシーも思いやりや共感を前提にしたものに留まってしまうから。
子どもの権利や子どもアドボカシーもこうした人権の発想を土台にしたものでなければいけないのだけれど、どうにも啓発が思いやりや共感みたいなものをベースに広まっているように感じられる部分があり危惧している。
こと子どもアドボカシーでは思いやれない、共感できないような子どもの声であってもちゃんと聴いて受け止めていけるかが問われているのだから。
ただマジョリティがどれだけマイノリティを思いやり共感できるかについてはあまり期待できないと思う部分があって。下手に思いやり共感できているつもりになられるよりも、思いやれない共感できないという前提でそれでも声を聴かせてくださいという姿勢の方が良いのではないかと思います。
そんなことを地道に続けていくしかないのかなと。
日曜の夜に重たい話ですが #世界子どもの日 ということもあるので色々と思うことを書いてみました。